豊龍丸 船長大下 真司さん
1972年、豊岡市生まれ。高校卒業と同時に家業の漁師になる。29歳の時、父の跡を継いで豊龍丸の船長に。趣味は漫画。愛読書は「おおきく振りかぶって」「進撃の巨人」など。家庭では2児のお父さん。
「どんどん水揚げされている活きのいい
津居山のカニを食べに来て。
城崎温泉に来られた際にはぜひどうぞ!」
家業を継いで漁師へ
突然の父の引退
祖父の代から始めた漁師。父の代には中型船を購入し、乗組員を雇い入れて操業するようになりました。大下さんにとって漁師は自然な選択。高校卒業後はすぐに父の船に乗りました。
ベテランの父の元、他の船員たちと共に毎日の仕事をこなす日々。“その日”は突然やってきました。
「父が漁の最中に倒れたんです。訳が分からず、とにかく港へ直行しました」。
港から救急車で病院へ。脳梗塞でした。
船長としての責任
一命はとりとめたものの、左手に麻痺が残ってしまった父。大下さんにとっては前ぶれなく訪れた父の引退、そして船長交代の時でした。
「とにかくやるしかない」。数日後、漁を再開。船には、父の入院先からしょっちゅう電話がかかってきたそうです。
「父も心配でたまらなかったんでしょうね」と、大下さん。それまでとは責任が大きく変わり、プレッシャーに苦しみました。
父の操業日誌を読み返したり、他の船長さんに情報をもらったりと、とにかく必死にやり方を模索する毎日。
「1年目のことはよく覚えていない」と、当時を振り返ります。父親が現役のうちにもっと教わっておけば良かったという思いは今も残っているそうです。
人間関係を大切に
人の名前や顔を覚えるのが苦手だったという大下さん。父に代わって船主会や船長会に出席するようになり、人間関係の大切さを痛感しました。
「機械化が進んだ今も漁は情報戦。普段の交流や相手を尊重することが大事」と、話します。
また、6年前に普通の家庭から嫁いでくれた奥様へは、常に感謝の気持ちがあるのだとか。
「子育てや家事をこなしながら、経理や競り場での手伝いなど、船主の奥さんはすごく負担が大きい。本当にありがたいです。面と向かってはなかなか言えないですけど(笑)」。
大下さんの言葉からは深い愛情と尊敬の念が伝わってきました。
今後の漁を考える
毎年高値で取引される「津居山かに」の資源保護は、漁師たちの自主規制によって成立しています。漁獲量の回復には、さらに厳しい規制も必要と考える大下さん。また、価格を下げない努力として、全国に向けた宣伝の必要性を感じているそうです。
最近、大下さんを含む30~40代が協力し、少しずつできることをしようという動きがあると言います。その一つが「船名札」。従来の、紙に船名が印刷されたものに変え、衛生面とイメージアップを考え、船名の入った写真付きのフィルムシートを作りました。どの船が穫った魚か一目瞭然にすることで、品質への自信を強調し、ブランド力を高めるねらいがあります。
次代へつなぐ
津居山では現在15隻の船が操業。後継者不足で廃業する全国の漁業関係者が多い中、津居山ではほとんどが家業を継ぎ、近年船長の世代交代で若返り傾向にあるのだとか。
「津居山では、休漁期も船員に船の整備や網の修復を依頼し賃金を払います。また、売上げが見込まれるカニシーズンでも意外と休みがある」。資源保護の意識や時化の時は無理をしないという考えから、休みなしに漁に出続けることはないと言います。そうした伝統的に続く津居山独特の漁師の働き方が、若い世代を育てているのかもしれません。
父の跡を継いで15年。中心的な世代となってきている大下さん。
「60代のベテラン船長さんは経験値を持ったすごい存在。同世代は相談しやすい。次の世代へつなげるために、一緒に協力して行きたいです」。